2012年6月25日月曜日

アイマスは緩やかな死を迎えるのか

昨日一昨日とアイマスの7thアニバーサリーのライブがあったわけですが、申し込みの抽選で落ちたわけで行ってません。でまあ、ネットからいろいろと情報を収集してたわけですが、どうやらライブでの発表は事前にファミ通あたりの雑誌からのリークでライブ前にわかってたPSPでの新ゲームとそのゲームにアニメが1本つく、漫画が何本かスタートするというものだそう。個人的には2日目の発表で小鳥さんが中の人が子供産んだし、育児休暇としてお休みするという発表があるかな、と読んでたけど、まあなかったわけで。

ここ4年ぐらいのライブで3rdだと美希移籍とSP発表、4thのDSという新キャラの投入、5thの2の発表、5thと6thの間にあった新年ライブでのアニメ化発表に比べたらかなり地味というか6th以降はこれまでのような驚きの発表というのがなくなったね。アニメは2制作と同時に準備してただろうから、2発表以降は無難路線とも言えなくもない。

これが、坂上か石原どっちかが言ってた「アイマスを好きになったり嫌いになったりしてください」の言葉のとおりに、2で一部のファンが先鋭的なアンチに転向して、あまりにも嫌われすぎてるのにビビって無難なものしか出せなくなったとしたら笑える。お前らが嫌いになれって言ったんだろw

で、こっからが本題なんですが、twitterの#imas、#imas7thやmixiのアイマスコミュニティの掲示板とか見る限り、ライブは最高だったって声は沢山あるんだけど、新作ゲームが発表されたのにも関わらずそれに関するコメントがほとんどないんだよね。もちろん大半の人は事前にPSPでゲームが発表されるって知ってたから驚きがないってのもあると思う。けど、上にも書いた新作ゲームが発表された3rd、4th、5thのときはライブの感想もあったけど喧々諤々にアイマスのこれからについて熱く話し合ってたのが、今は無風状態。もちろん、既存キャラでの音ゲーとかどう語れって話だけど、アイマスのこれからを話すよりも、ライブのインパクトがでかかったということなんだろう。まあこれをライブが良すぎたからと見るか、アイマスのこれからを直視したくないと見るか、新作ゲームに興味ないと見るかは人次第ってことでw きつく言えばアイマスのこれからを直視するより過去のいい思い出に浸るほうが幸せって時代が来つつあるのかもね。

来年にあるだろう8th次第だけど、そこでも無難な発表だったらよく言えば成熟、悪く言えば停滞、マンネリの域にアイマスが入る。アニメ2期発表でもやれば話は別だけど。今回のライブの反応が過去最高のライブとか泣いたとかすごい賞賛されてるわけで、こういう声が多数ってことを考えるとアイマスファンはやっぱりキャラクターと中の人を紐付けして見てるなあと思う。そうやって考えると、中の人含めて全キャラ入れ替えて新キャラのゲームを主流にする、例えばモバマスキャラが主役のゲーム発表、765プロ引退ってのはないかなあと。不況でゲーム、CDが売れないとかいう中、コア層だけで5000から1万人、裾野まで広げれば5万人はファンがいるだろうコンテンツ、アイマス。金の卵を産む鶏を殺して、卵を産むかすらわからない新しい鶏にするのはリスクが大きすぎて無理だろう。だから>もう3rd、5thみたいに一部キャラを移籍させたりしてプロデュース不可にしたゲームの発表したり、4thみたいに新キャラのゲームを入れて全員入れ替えか?という疑念を持たせるようなことはないと思う。鶏が卵を産まなくなる日まではちゃんと生かすでしょう。死にかかった2がトラウマになっているっぽいし。

モバマスはモバマスでCD発表とかしてるから既存の765プロの「アイマス」と並行しての展開で、もしモバマスキャラ主役のゲームが出るとしたら、765プロの新作ゲームと一緒じゃないだろうか。4thでのDSのように765プロキャラ全員入れ替えの疑念を持たせるようなことはさせないようにすると見る。もう1本の柱にはなりうるだろうけど、柱の取り替えはしないだろう。

たぶんこれからの展開は無難路線を貫くのなら今回の音ゲーのようにキャラクターをつかったアクションゲーとかRPGとかそういう派生的な感じになるだろう。あと今回のライブビューイングの結果次第と思うけど、もっとライブ増やすかもね。結局、今のアイマスファンの多数が望むのはアイドルをプロデュースするゲームではなく、今いるキャラクターと中の人がいるアニメであったりライブであったり、他の何かだったりするから。

この無難路線のままだと、2007年からのニコニコ静画でのアイマスMAD投稿による爆発的な人気増加みたいなことがない限り、徐々に衰退して緩やかな死を迎えそうな感じがする。アイマス?ああそういうゲームもあったねってなるより盛大な「引退ライブ」じゃないけど、終わらせるならぶっ壊すなり、でかい花火あげるなりして欲しい。ドーム公演でおしまい、とかね。

今回のライブビューイングの数次第だけど、武道館かドームでペイできると判断したら次は武道館かドームライブかな。去年の3度めの正直でのアニメが絶賛されて放送終了して、アイマス界隈が燃えつき症候群的な感じになってたけど、もし次のライブが武道館かドームだとしたらそれがもっと顕著になるだろう。それこそドームなんかでやった日には、もうこれからの目標的なものがなくなってしまうわけで。ただ、だらだら続けるよりゲームと同じようにドーム実現で一気に終わらせたほうがいいと思うけどな。下手に公式が続けて思い出を汚されるという状況より、思い出はきれいなままに、ゲームの中に、ということしておいたほうがいい。

いやでもアイマスの盛り上がりはこっからだよ、とか言われても、5thあたりから「終わりは始まり」的なメッセージがライブとか公式から出始めてること考えると、やっぱり終わりを意識せざるを得ない。ここまででかくなったコンテンツをどう終わらせるかというのは気になる。緩やかな衰退で終わるのか、盛大に花火を打ち上げて終わるのか。

個人的には2で冷水ぶっかけられて熱が冷めてる状況なので、テコ入れとして「3」でまた2みたいにいろいろといじくりまくって思い出を汚される的な流れだけは勘弁して下さい。

2012年6月5日火曜日

まとめアフィへの転載禁止から広まりすぎた話

昨日、午前中に出た特定のアフィまとめブログに対して、2ちゃんねるのレスの転載禁止された話。かなり飯が美味い。名前が出てるやつ全部、対立煽りだったり、偏向だったり、ステマだったりして、残当なわけですが、まあなんというか2ちゃんねるが大きくなりすぎたな、と。あ、まとめブログ見てネットde真実()笑とかマスゴミとかいうアホが大量生産された話とか、流入して新参ひどいよとか、対立煽りとか、ステマとかの話はうまくまとまりそうにないので書きません。書かなくてもうまくまとまらないけど。

日本におけるネットの中心はここ5年、大きく見るとこの10年ぐらいに渡って2ちゃんねるだった。特に2008年あたりからの3年間はまとめブログからの影響だけじゃなくてまとめブログからさらにロンダしたj-castとかロケットニュースとかのニュースじゃないニュースサイトからexciteとかmixiとかの一般サイトに記事が掲載されて、かなり影響を与えてたんじゃないだろうか。2ちゃんねる? え、そんなテレビ局ないよ? から、2ちゃんにおもしろいスレがあってさー、だ。

日本のネットもギークやオタクが大半を占める世界だったのがここ数年で、よく言えば一般化、悪く言えば大衆化した。中高生での共通の話題としてテレビドラマの代わりにアニメを見るような、スクールピラミッドでいう中間層が一気にネットに流れてきた。スマホとtwitterのコンボがでかい。

インターネットに未来を見出したり、僕たちの秘密基地だった時代は終わった。インターネットに未来なんてなかった。ネットに対してワクワクしてた時代の遺産だけが残った。その遺産は利率がそこそこの資産だと思っているけど、あのインターネットに感じてた全能感や一体感はなくなった。人がたくさん来て特別な空間から現実世界を映し出す日常的な空間になった。いやヴァーチャルって現実と同じって意味じゃん、って話だしこれが未来だったのかもしれない。でも、なんか、なんだかなー。

2ちゃんねるみたいな匿名で煽り合って違法ファイルやりとりして下手すりゃブラクラでパソコンぶっ壊されるようなアングラサイトはもう日本のネットの中心にはいられないのだ。一般の方が多くいるのですよ! そんなパソコンがぶっ壊されたり違法薬物の取引が書かれるような違法サイトは閉鎖閉鎖閉鎖! 影の部分には限りがあります。明るい部分から来た方は後ろを向いて影を見たり影踏みしたりしてないで、前を向いて明るい部分で健康的に遊びましょう。さあ、みんなtwitterかfacebookにでも帰るか移住でもしなさい。僕はGoogle+ちゃん!

2ちゃんねるの凋落というのは、twitterが流行り始めてきてちょっとずつ感じてきたけど、今回のが一つの転換点、大きな事件として記憶される。影の部分が照らされて、明るいところから人がどかどかやって来て、元からいた人が完全にいなくなってコミュニティとしての終わりを迎えるよりかは、影の部分ツアーみたいなことしてるまとめアフィをなくして、コミュニティの再建をひっそりとやっていくのがいいということなのだろう。

もう匿名の掲示板なんか終わりなのかもしれない。アニメ系に関してはふたばのmayあたりに中心が移りそうな気もするが、あそこは閉鎖性が2ちゃんねるより高く反発もでかいからどうなることやら。2ちゃんねるみたいにいろんな話題があるササラ型から一人一人の趣味にカスタマイズしたtwitterみたいなタコツボ型にコミュニティはシフトするのかもしれない。アニメアニメうっせーよオタクども。リア充は死ね。これらのご要望にお答えします。いろんな人が来て、人種が多様化して、もうみんな1ヶ所には集まれないよ。集まっても現実と同じように交わらないようにしなきゃ。

一番楽しいのは内輪の話。もう2ちゃんねるで内輪ノリはできない。結局は、そこに行き着く。

2012年5月24日木曜日

Mの迷宮 『輪るピングドラム』論 レビュー

ピングドラムの評論本、Mの迷宮 『輪るピングドラム』論 山川賢一 著 買いました。ピングドラム好きなので。まあ結論から言ってしまうと、本の値段1500円という映画1本分には足りなかった。Amazonのレビューで言ったら星2つ。これ書いた後に、短くしたのを投稿するつもりだけど。まあ評論本と解説本は違うよね、といえばそれまでだけど、個人的には深く読み解いた上でいろんな評論する本だと思ってただけにかなりがっかりした。前のピングドラムについて語った記事で上げた新聞での解説と評論や、公式ガイドブックにあった藤津亮太の寄稿と幾原監督と対談した辻村深月の寄稿を読んだ後だっただけに、落差をひどく感じる。

まあAmazonのページにある目次で5章のうち3章が他作品について言及っての知ってた上で地雷を踏みに行ったわけですけれども、まあちょっとは地雷じゃないと期待してましたが地雷だった。まあ一応Amazonへのリンクは貼っときますが。

Mの迷宮 『輪るピングドラム』論

で、まあ一言で言うならピンぼけしてる本だなと読み終わってから思った。だって一番最初と一番最後にこの作品のテーマは愛ですと提示してるのに主な話は「生存戦略」と「運命」ということが主な話。さらに言えば輪るピングドラムは宮沢賢治の銀河鉄道の夜がモチーフになってるってことはいろんなところで散々言われているのに、言及してるのが最後の章での6ページちょっと。他作品の評論部分で3章分使うより、本筋に関わる銀河鉄道の夜からのアプローチをもうちょっと増やすべきでしょ。ウテナやナウシカ、エヴァについていろんな作品を出して言及しているが、その部分は見ていない人への各作品のあらすじ、作品とピングドラムとの共通点を簡単にまとめるだけでいい。長い。

さらに言えば、ウテナやナウシカ、エヴァは全体主義3部作として章題の副題としてついてるようにこの評論本はピングフォースや眞悧、子供たちの生存戦略に焦点を置いてるわけだが、それとともにピングドラムの柱である愛についての言及が少ない。完全に消化不良。こないだ書いた自分のクソみたいな考えのほうが愛のあたりについてはマシと思うぐらい少ない。このあたりがピンぼけしてるなと感じた理由。恥ずかしがらずに愛について語れよ。

あと作中で出てくるいろんなメタファーについてほとんど読みといていない。そういう作中のメタファーを読み解いてピングドラムという作品を評する的なのを求める人はやめたほうがいい。

あ、ただ1点だけなるほどと思ったのが、なぜマリオにペンギンがつかなくて真砂子についてるかというところ。ペンギンは片思いの連鎖を表していて、いったんこの関係が露呈してしまうと氷山の上のペンギンのように誰かを突き落とさなければならないということ。ここだけはすごいうまいというか腑に落ちた。

むしろ他作品について言及しまくってこんな面白く無い評論にするぐらいだったら、途中の2章の4で自分のホラー愛をもっと開放して評論すべきだったでしょ。作者独自の視点が出てて、上手い下手とかおもしろいクソ以前に作者が楽しそうに書いてるように感じられるからこっちも楽しい。ホラーから読み解くピングドラムあたり的な題でこのボリュームだったらまあありだったかな。まああさっての方向からすぎてコミケで出せよって話かもしれないけど。このホラー部分とペンギンのくだりだけが面白かった。

それ以外は微妙で、些細な部分というかそこを突いていくか?というのが多かった。というよりも眞悧本人が僕は呪いのメタファーだからね、と言っているのに眞悧を一人の登場人物として扱ってその行動原理を読み解く部分がものすごい違和感があった。いやその呪いのメタファーの部分をもっと分解して行こうよ。

よく疑問に上がる、こどもブロイラー、桃果の日記のとは何か、「きっと何者にもなれない」とは?、プリンセス・オブ・ザ・クリスタルとは何者?、運命の至る場所は?等々に対する解答がないか不十分。もう一度書くけど、他作品に言及するぐらいならもっと読み解こう。まあそれが評論のスタイルです、と言うなら諦めますが。

あとピングフォースについて全体主義とか理想主義の堕落として言及してるけど、まあこれもピンぼけというかうーんという感じ。もちろん言及されてるがピングフォースは地下鉄サリン事件のオウムがモチーフ。で、幾原監督が同世代としての罪の意識があると。ここまではいい。なぜこっから革命だとか理想主義だとかのニッチなところに向かうのか。さらに言えばなぜ桃果について
桃果の能力が初めて描かれる第十五話には、「世界を救う者」というタイトルがつけられている。これは『ウテナ』を知っている視聴者に、桃果は「世界を革命する者」なんですよ、とヒントを出しているのだろう。
と言ってしまうのか。違うでしょ。公式ガイドブックの藤津亮太の寄稿から引く。ちょっと長くなるけど。
剣山の演説は迫力があって素晴らしい。この素晴らしさは具体性が書いているからで、そこには記号のように「素晴らしさ」だけが叫ばれている。剣山の「素晴らしさ」はなぜ、呪いとして冠馬や晶馬に受け継がれることになったのか。(略) だから剣山は、陽毬がこどもブロイラーに送られてことを知らされても、こどもブロイラーのある世界を避難はしても、行動を起こさなかった。そして晶馬は行動を起こした。人が「黒」の世界へ落下しようとする時、それをこの世に留められるのは、具体性を欠いた素晴らしい言葉ではない。だれか一人のために投げかけられる言葉、伸ばされる手だけが、その人を何者にもなれない虚無から救うのだ。
桃果が「世界を救う者」なのは、何者にもなれない虚無に落ちようとするところからただ一人のために言葉を、愛を投げかけられる者だからってことであって「世界を革命する者」という解釈はほぼ間違いと言ってもいい。ウテナやナウシカ、エヴァからの対比だろうけど、生存戦略や競争、全体主義ということにこだわりすぎ。愛の話なんだよ、なんでわかんないかなー。

まあだらだらと長くなったので終わりとしてまとめると1500円は高い。3/5が他作品の言及なので1500×2/5=600、さらにメタファーとかの消化不良ということで引いて切りの良い500円が妥当。いやまあ読む時間考えるとさらに微妙だと思うけど。途中のホラー部分やペンギンのくだりはおぉと思ったので、まあブックオフで買うか誰かから借りるかぐらいが妥当かな。自分で新品買うのは後悔する可能性が高いと思う。


この評論本と違って間違いなく3000円分、いやそれ以上の価値があると思うのはこの公式ガイドブック。上にも書いたように藤津亮太と辻村深月の寄稿が面白い。もちろんそれ以外にもスタッフのインタビュー、設定画、中の人のインタビュー、幾原監督と辻村深月の対談があってすごくいい。捨てページというのがこのガイドブックには存在しないと思うぐらい。眞悧先生の「しびれるだろう?」は100回以上撮り直してるということを知ることができるのはこのガイドブックだけ!
というわけなので評論本買うぐらいならこっちのガイドブック買いましょう。ガイドブックも買ってお金が余ってる人はこの評論本も買ってみるのもいいんじゃないんですかね、ということで。

ちなみに買いましたが、ブックオフあたりに売っぱらおうか考え中なので、ここんとこどうなの?とかいや実際にはもっとよかったじゃんとか言われても、その時点ではもう現物がない可能性があるのでどうにもならないです。

2012年5月6日日曜日

Google+のハングアウトに未来を見た。

Google+のハングアウトが最高に熱い。みんなハングアウトやろう。

ハングアウトは本来の目的はビデオチャット用で、Face to Faceでコミュニケーション取ろうよ的なアメリカンな感じのサービスだけど、それ以外の目的でしかこれまで使ってない。

どう使うかというと、ハングアウトのアプリケーションのYouTubeの動画視聴でみんな一緒に同じ動画を見ながらチャットするってこと。これが最高に楽しい。アニメOPED鑑賞会とか怖い動画鑑賞会とかみんなでワイワイチャットしながら見るのが熱い。

あと、ここ最近できた画面共有。これも熱い。これを使うと自分のパソコンの画面をその通り共有することができる。つまり、自分の見てる画面を離れた別の人にも見せることができるってこと。これもただ画面共有しながらダラダラして、お前何見てんだよwwとかそんな感じで楽しめる。

さらに今朝、新しい楽しみを発見してしまったのが、ソーシャルカラオケと名付けた遊び方。YouTubeで曲を流す→マイクをonにして歌う→楽しい! これが最高におもしろい。コンテンツ。まあ途中から相手にとって騒音にしかなってないようでしたが、歌ってる自分はおもしろかった。ただ、パソコン上の音をどう流したらいいのかがいまいちよくわかんない状態で、マイクがないパソコンでやってる友人がマイクonにして流すとパソコンの音拾うっぽいけど、マイクある自分のノートパソコンだとどうやったらいいのかが、わからないからまだこれは試行錯誤の途中。ただ新時代の歌ってみた()を感じたわ。

たぶんこれは間違いなく流行る。まあハングアウトが重いのは難点。YouTubeとか画面共有とかだとカックカクになるし、音も途切れ途切れになる。まあパソコンのスペックが低いからなんだけど、それなりのスペックが欲しいところ。公式のどっかに推奨スペック書いておいて欲しい。skypeのチャットと違ってファイルのやり取りはできないけど、YouTubeで同じ動画見たり画面共有できるのはかなり魅力的。あと、使ってないけどGoogle Documentのあるファイルを共同で編集することもできる。

未来感じたね。

2012年5月3日木曜日

「愛の話なんだよ、なんでわかんないかな~」3

愛については散々語ったから次はサネトシ先生の「箱」とかピングフォース、あたりについて自分が思ったことをまとめておく。

眞悧が言った「箱」、冠馬と晶馬が閉じ込められていた箱。眞悧の言葉を引く。
「人間っていうのは、不自由な生き物だね。自分という箱から一生出られないんだ」(略)「隣に誰かがいても、壁を超えて繋がることもできない。僕らはみんなひとりぼっちなのさ。その小さく狭い箱の中で何かを得ることなど絶対にないだろう」(略)「出口なんかどこにもない。誰も救えやしない。だから、壊すしかないんだよ。箱を、ひとを!世界を!」
これらも事実というか本当である。エヴァだと自我と他人とを隔てるものとしてATフィールがあったように、他人とは自我という箱で隔てられ、他人とは一緒にはなれない。自分と他人、それはもう別の生き物だ。これが眞悧のいう箱は、名付けるならば「自我の箱」である。箱をいくつ繋げても1つの箱がなくなるわけではないのだ。

では、なぜ冠馬と晶馬は箱に閉じ込められて餓死しそうになっていたのか。前の記事でも書いたように人ってのは愛されたことがないと、存在を認めてもらえないと死んでしまうということに戻る。眞悧先生が言ったようにそもそも人は箱の中に閉じ込められていて、箱から出ることはできない。そしてその箱のなかで何かを得ることはできない。だから冠葉と晶馬がやりとりしたように、ピングドラム、愛をやりとりしないと死んでしまう。そう、冠葉と晶馬が閉じ込められて餓死しそうになっていたのは前にも書いたように親からの愛情を受け取れていなかったからである。

愛はお互いが手を差し出さないと成立しない。眞悧先生はそのことに気づくことができなかった。鷲塚医師が差し出していたかもしれない手に気づかなかった。眞悧先生は自分を閉じ込める箱を、ひとを、世界を壊して外に出ようとしたのだ。何もない誰とも繋がれない箱から存在を認めてもらおうと、愛を得ようと、生きる意味を得ようとした。眞悧先生は自分の分身とも言える、シラセとソウヤにしか認められなかった寂しい、けれども僕たちの世界にもいる人だった。そう思うと彼の言葉が負け惜しみに聞こえてきて悲しく、自分と重ねあわせてしまう。
「きみたちは決して呪いから逃れることはできないよ。僕がそうであるようにね」(略)「箱のなかのきみたちが何かを得ることなどない! この世界に何も残せず、ただ消えるんだ。塵ひとつ残せやしないさ!」(略)「きみたちは絶対、しあわせになんかなれない」

ピングフォースについては前記事で引いた部分をもう一度引いておく。
夏芽左兵衛が築き上げた夏芽の人々は、とても強欲だった。この世界は欲のあるものが支配し、それ以外の人間には果実など与えない。それが祖父の呪いだと思っていた。だから、真砂子は夏芽のすべてを捨てて姿をくらました父を、欲のない美しいひとだと思った。しかし、あそこは父の棺だった。未だ実態のはっきりとしない、揺れ動く、父の美しい棺だったのだ。単純に目に見える美しさや光には、必ず影が付きまとう。冠葉は真砂子やマリオをその影から救い出し、本当の光、陽のあたる世界へおいてくれた。ゆりの言った通り、真砂子はそのことに気がつかない子供だったのだ。 
強欲な人は果実を他の人に与えず、前の記事で書いたように呪い=家族であるわけだ。確かにそうであるけれども、じゃあ欲のないのが美しいのか。その一つの答えがピングフォースである。ピングフォースというのは美しい目標に対して「正しいこと」を言う人だけれども、他の人から見ると狂人と呼ばれる集団だ。

ピングフォースは95のマークや地下鉄爆破事件からもわかるようにオウムがモデルだ。幾原監督は公式ガイドブックでの辻村深月との対談で
少し話が変わるんだけど、若い人のドグマが表出するきっかけはいつも、"とてつもない正義" だと思うんですよ。60年代の運動だって、彼らが信じるとてつもない正義が大人たちに反抗するパワーになった。95年の事件もそう。それを起こした彼ら一人ひとりの言葉を見聞きすると、その正しさたるや、聞いていて吐き気をもよおすぐらいの潔癖さだったりする。じゃあ今はどうか? インターネットで交わされている言葉にはとてつもない正義があふれていますよね。ネット上で名前のない彼らは、徹底して正しさとは何か、という話を煮詰めていて、ちょっとでも汚れていると途端に総攻撃を仕かけることがある。その正しさがさらに煮詰められたときに、いったいどうなるのか? 世界というのは基本的に正しさで構成されていないから、人間は正しさを語り合うと同時にうしろ暗さも抱えていて、自分をあましながら生きている。バーチャルの世界で煮詰められた正しさも、最終的にはなんらかのエネルギーとして表出する気がしますね。
と述べている。正しさを求めるあまり排他的になり、自分の存在を、居場所を世界からなくしていき、「透明な存在」になってしまったコミュニティ。正しさが、光が増えると影の居場所はなくなっていく。光だけを求めると、光と影がある世界が許せなくなる。


最後に冠馬が言った「俺は見つけたよ。本当の光を」という話は結局のところこれにつながっている。箱に閉じ込められた自分を照らしてくれる光。光だけが、影だけが支配する世界から光と影が共存する世界へ導いてくれる光。


また眞悧先生の言葉を引く。
「だよね。きみが彼の行いを否定すればするほど、きみの声は彼から遠ざかり、届かなくなる。わかってるだろう? 『誰よりもきみが必要なんだ』って、みんなそう言って欲しいんだ。それだけを求めて生きているんだ」
愛が、存在を認めてもらえなければ人は透明な存在になる。では求めるままにすればそれでいいのか。陽毬の言葉も引く。
「だって、キスは無限じゃないんだよ、消費されちゃうんだよ。果実がないのにキスばっかりしてたら、私は空っぽになっちゃうよ」
果実、愛がないのにキスをする。相手が認識していないのに自分を削って何かを与えようとする。だからキスは無限じゃなく、消費されてしまう。まるでホストクラブやキャバクラで貢ぐように。相手が求めるままに与えればいいのか。前にも書いたように愛とはキャッチボールようなもの。一方的ではダメで、相互に投げ合う、またはちゃんと受け取る必要があるわけだ。

ピングドラムは基本的には愛の話であるが、傍流としてコミュニティについてということがある。また幾原監督の言葉を引く。
それまで漠然と依存してきたコミュニティーのありようが変わって、意識的に自分の拠り所を最確認する心の動きが起こったとします。そのときに一番リアリティーがあるのは、やっぱり「生んでくれて、ありがとう」や「育ててくれて、ありがとう」じゃないですか。
家族という最小のコミュニティとピングフォースというコミュニティ。 2011年は非日常があり、自分の属しているコミュニティを最確認する年だった。ピングドラム作中にもあったように、家族が最後の絶対の砦になるとは限らない。これまではほぼ強制的に箱が繋がれていたのが、幾原監督が例に出すアメリカでの囚人の家族みたいに、コミュニティを維持する、作るということが重要になっていくのかもしれない。

箱とかはうまく言えるけど眞悧先生であったりピングフォースみたいなコミュニティについてはまだうまく咀嚼して語れない。大きなテーマの愛については前記事のようにうまく言えるけど、この記事みたいな傍流の部分がまだよくうまく語れない。運命の至る場所とかね。でもまあ、とりあえずなんかうまくは言えないけど、ピングドラムについて語るのはここまでにする。前のピングドラムの記事も含めると1週間ぐらいずっと考えてて、いろいろと手につかなかったのでそろそろまともな生活に復帰しなければ。

またなんかうまく理解して語りたくなったら書こう。