2016年5月23日月曜日

ピングドラムの運命の果実がリンゴな理由

ふと気づいたというか腑に落ちる解釈ができたので書いておきます。
気づいている人もいるかもだけど。


輪るピングドラムでは、運命の果実であるリンゴを一緒に食べることで、運命の乗り換えができる。では、なぜリンゴで一緒に食べることで運命の乗り換えができるのか。

リンゴといえば、旧約聖書のアダムとイブが食べた禁断の果実としてのリンゴが想起される。楽園に住んでいた2人は蛇にそそのかされて、リンゴを食べてしまい、楽園から追放される。そしてこの物語の構図をピングドラムで考えると、筋の通った解釈ができる。

楽園というのはアダムとイブが「父」なる神から与えられた、全てが不自由しない場所である。この関係性、与える「父」と与えられる子どもは、家庭だ。親が子どものために様々なものや環境を与え、子どもが何不自由なく過ごすというはまさに理想的な家庭だ。しかし、世の中はそのような理想的な家庭、家族だけではない。ピングドラムで多蕗やユリのような子どもにとって親と子は、生殺与奪権を持つ「神」と親の理想を実現するための「子羊」でしかない。

彼らにとって楽園は楽園ではなく、もはや逃げ出すべき場所でしかない。唯一逃げ出すことができる方法が、運命の乗り換えができる方法が、禁断の果実を食べ、楽園を追放されることである。禁断の果実を食べると罰を受ける。運命の乗り換えで代償を負うピングドラムも同じだ。

つまり、運命の乗り換えでリンゴを一緒に食べる意味は、2人で罰(または罪ともいう)を分けあうことで、家族という与えられた環境を捨て、新たな環境で生きていくということである。だから、高倉家に新しい環境をもたらす女の子の名前が苹果なのかもしれないと思った。

親の愛の象徴として高倉家の玄関にリンゴが積んであったように、ピングドラムの象徴として出てくるのもリンゴである。上では不幸な家庭の例を挙げたが、幸せな家族だってもちろん存在する。それでも、幸せに思えた愛だって人の拘束装置に変貌しうる。そのような非常時の脱出装置として、お互い分け与えるけども何かがあった時に逃げる(逃げさせる)ために、リンゴが必要だ。だから輪るピングドラムでは、愛の象徴と運命の乗り換えに必要なものは表裏一体で、リンゴとして表されているのだと思う。

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