2012年5月24日木曜日

Mの迷宮 『輪るピングドラム』論 レビュー

ピングドラムの評論本、Mの迷宮 『輪るピングドラム』論 山川賢一 著 買いました。ピングドラム好きなので。まあ結論から言ってしまうと、本の値段1500円という映画1本分には足りなかった。Amazonのレビューで言ったら星2つ。これ書いた後に、短くしたのを投稿するつもりだけど。まあ評論本と解説本は違うよね、といえばそれまでだけど、個人的には深く読み解いた上でいろんな評論する本だと思ってただけにかなりがっかりした。前のピングドラムについて語った記事で上げた新聞での解説と評論や、公式ガイドブックにあった藤津亮太の寄稿と幾原監督と対談した辻村深月の寄稿を読んだ後だっただけに、落差をひどく感じる。

まあAmazonのページにある目次で5章のうち3章が他作品について言及っての知ってた上で地雷を踏みに行ったわけですけれども、まあちょっとは地雷じゃないと期待してましたが地雷だった。まあ一応Amazonへのリンクは貼っときますが。

Mの迷宮 『輪るピングドラム』論

で、まあ一言で言うならピンぼけしてる本だなと読み終わってから思った。だって一番最初と一番最後にこの作品のテーマは愛ですと提示してるのに主な話は「生存戦略」と「運命」ということが主な話。さらに言えば輪るピングドラムは宮沢賢治の銀河鉄道の夜がモチーフになってるってことはいろんなところで散々言われているのに、言及してるのが最後の章での6ページちょっと。他作品の評論部分で3章分使うより、本筋に関わる銀河鉄道の夜からのアプローチをもうちょっと増やすべきでしょ。ウテナやナウシカ、エヴァについていろんな作品を出して言及しているが、その部分は見ていない人への各作品のあらすじ、作品とピングドラムとの共通点を簡単にまとめるだけでいい。長い。

さらに言えば、ウテナやナウシカ、エヴァは全体主義3部作として章題の副題としてついてるようにこの評論本はピングフォースや眞悧、子供たちの生存戦略に焦点を置いてるわけだが、それとともにピングドラムの柱である愛についての言及が少ない。完全に消化不良。こないだ書いた自分のクソみたいな考えのほうが愛のあたりについてはマシと思うぐらい少ない。このあたりがピンぼけしてるなと感じた理由。恥ずかしがらずに愛について語れよ。

あと作中で出てくるいろんなメタファーについてほとんど読みといていない。そういう作中のメタファーを読み解いてピングドラムという作品を評する的なのを求める人はやめたほうがいい。

あ、ただ1点だけなるほどと思ったのが、なぜマリオにペンギンがつかなくて真砂子についてるかというところ。ペンギンは片思いの連鎖を表していて、いったんこの関係が露呈してしまうと氷山の上のペンギンのように誰かを突き落とさなければならないということ。ここだけはすごいうまいというか腑に落ちた。

むしろ他作品について言及しまくってこんな面白く無い評論にするぐらいだったら、途中の2章の4で自分のホラー愛をもっと開放して評論すべきだったでしょ。作者独自の視点が出てて、上手い下手とかおもしろいクソ以前に作者が楽しそうに書いてるように感じられるからこっちも楽しい。ホラーから読み解くピングドラムあたり的な題でこのボリュームだったらまあありだったかな。まああさっての方向からすぎてコミケで出せよって話かもしれないけど。このホラー部分とペンギンのくだりだけが面白かった。

それ以外は微妙で、些細な部分というかそこを突いていくか?というのが多かった。というよりも眞悧本人が僕は呪いのメタファーだからね、と言っているのに眞悧を一人の登場人物として扱ってその行動原理を読み解く部分がものすごい違和感があった。いやその呪いのメタファーの部分をもっと分解して行こうよ。

よく疑問に上がる、こどもブロイラー、桃果の日記のとは何か、「きっと何者にもなれない」とは?、プリンセス・オブ・ザ・クリスタルとは何者?、運命の至る場所は?等々に対する解答がないか不十分。もう一度書くけど、他作品に言及するぐらいならもっと読み解こう。まあそれが評論のスタイルです、と言うなら諦めますが。

あとピングフォースについて全体主義とか理想主義の堕落として言及してるけど、まあこれもピンぼけというかうーんという感じ。もちろん言及されてるがピングフォースは地下鉄サリン事件のオウムがモチーフ。で、幾原監督が同世代としての罪の意識があると。ここまではいい。なぜこっから革命だとか理想主義だとかのニッチなところに向かうのか。さらに言えばなぜ桃果について
桃果の能力が初めて描かれる第十五話には、「世界を救う者」というタイトルがつけられている。これは『ウテナ』を知っている視聴者に、桃果は「世界を革命する者」なんですよ、とヒントを出しているのだろう。
と言ってしまうのか。違うでしょ。公式ガイドブックの藤津亮太の寄稿から引く。ちょっと長くなるけど。
剣山の演説は迫力があって素晴らしい。この素晴らしさは具体性が書いているからで、そこには記号のように「素晴らしさ」だけが叫ばれている。剣山の「素晴らしさ」はなぜ、呪いとして冠馬や晶馬に受け継がれることになったのか。(略) だから剣山は、陽毬がこどもブロイラーに送られてことを知らされても、こどもブロイラーのある世界を避難はしても、行動を起こさなかった。そして晶馬は行動を起こした。人が「黒」の世界へ落下しようとする時、それをこの世に留められるのは、具体性を欠いた素晴らしい言葉ではない。だれか一人のために投げかけられる言葉、伸ばされる手だけが、その人を何者にもなれない虚無から救うのだ。
桃果が「世界を救う者」なのは、何者にもなれない虚無に落ちようとするところからただ一人のために言葉を、愛を投げかけられる者だからってことであって「世界を革命する者」という解釈はほぼ間違いと言ってもいい。ウテナやナウシカ、エヴァからの対比だろうけど、生存戦略や競争、全体主義ということにこだわりすぎ。愛の話なんだよ、なんでわかんないかなー。

まあだらだらと長くなったので終わりとしてまとめると1500円は高い。3/5が他作品の言及なので1500×2/5=600、さらにメタファーとかの消化不良ということで引いて切りの良い500円が妥当。いやまあ読む時間考えるとさらに微妙だと思うけど。途中のホラー部分やペンギンのくだりはおぉと思ったので、まあブックオフで買うか誰かから借りるかぐらいが妥当かな。自分で新品買うのは後悔する可能性が高いと思う。


この評論本と違って間違いなく3000円分、いやそれ以上の価値があると思うのはこの公式ガイドブック。上にも書いたように藤津亮太と辻村深月の寄稿が面白い。もちろんそれ以外にもスタッフのインタビュー、設定画、中の人のインタビュー、幾原監督と辻村深月の対談があってすごくいい。捨てページというのがこのガイドブックには存在しないと思うぐらい。眞悧先生の「しびれるだろう?」は100回以上撮り直してるということを知ることができるのはこのガイドブックだけ!
というわけなので評論本買うぐらいならこっちのガイドブック買いましょう。ガイドブックも買ってお金が余ってる人はこの評論本も買ってみるのもいいんじゃないんですかね、ということで。

ちなみに買いましたが、ブックオフあたりに売っぱらおうか考え中なので、ここんとこどうなの?とかいや実際にはもっとよかったじゃんとか言われても、その時点ではもう現物がない可能性があるのでどうにもならないです。

2012年5月6日日曜日

Google+のハングアウトに未来を見た。

Google+のハングアウトが最高に熱い。みんなハングアウトやろう。

ハングアウトは本来の目的はビデオチャット用で、Face to Faceでコミュニケーション取ろうよ的なアメリカンな感じのサービスだけど、それ以外の目的でしかこれまで使ってない。

どう使うかというと、ハングアウトのアプリケーションのYouTubeの動画視聴でみんな一緒に同じ動画を見ながらチャットするってこと。これが最高に楽しい。アニメOPED鑑賞会とか怖い動画鑑賞会とかみんなでワイワイチャットしながら見るのが熱い。

あと、ここ最近できた画面共有。これも熱い。これを使うと自分のパソコンの画面をその通り共有することができる。つまり、自分の見てる画面を離れた別の人にも見せることができるってこと。これもただ画面共有しながらダラダラして、お前何見てんだよwwとかそんな感じで楽しめる。

さらに今朝、新しい楽しみを発見してしまったのが、ソーシャルカラオケと名付けた遊び方。YouTubeで曲を流す→マイクをonにして歌う→楽しい! これが最高におもしろい。コンテンツ。まあ途中から相手にとって騒音にしかなってないようでしたが、歌ってる自分はおもしろかった。ただ、パソコン上の音をどう流したらいいのかがいまいちよくわかんない状態で、マイクがないパソコンでやってる友人がマイクonにして流すとパソコンの音拾うっぽいけど、マイクある自分のノートパソコンだとどうやったらいいのかが、わからないからまだこれは試行錯誤の途中。ただ新時代の歌ってみた()を感じたわ。

たぶんこれは間違いなく流行る。まあハングアウトが重いのは難点。YouTubeとか画面共有とかだとカックカクになるし、音も途切れ途切れになる。まあパソコンのスペックが低いからなんだけど、それなりのスペックが欲しいところ。公式のどっかに推奨スペック書いておいて欲しい。skypeのチャットと違ってファイルのやり取りはできないけど、YouTubeで同じ動画見たり画面共有できるのはかなり魅力的。あと、使ってないけどGoogle Documentのあるファイルを共同で編集することもできる。

未来感じたね。

2012年5月3日木曜日

「愛の話なんだよ、なんでわかんないかな~」3

愛については散々語ったから次はサネトシ先生の「箱」とかピングフォース、あたりについて自分が思ったことをまとめておく。

眞悧が言った「箱」、冠馬と晶馬が閉じ込められていた箱。眞悧の言葉を引く。
「人間っていうのは、不自由な生き物だね。自分という箱から一生出られないんだ」(略)「隣に誰かがいても、壁を超えて繋がることもできない。僕らはみんなひとりぼっちなのさ。その小さく狭い箱の中で何かを得ることなど絶対にないだろう」(略)「出口なんかどこにもない。誰も救えやしない。だから、壊すしかないんだよ。箱を、ひとを!世界を!」
これらも事実というか本当である。エヴァだと自我と他人とを隔てるものとしてATフィールがあったように、他人とは自我という箱で隔てられ、他人とは一緒にはなれない。自分と他人、それはもう別の生き物だ。これが眞悧のいう箱は、名付けるならば「自我の箱」である。箱をいくつ繋げても1つの箱がなくなるわけではないのだ。

では、なぜ冠馬と晶馬は箱に閉じ込められて餓死しそうになっていたのか。前の記事でも書いたように人ってのは愛されたことがないと、存在を認めてもらえないと死んでしまうということに戻る。眞悧先生が言ったようにそもそも人は箱の中に閉じ込められていて、箱から出ることはできない。そしてその箱のなかで何かを得ることはできない。だから冠葉と晶馬がやりとりしたように、ピングドラム、愛をやりとりしないと死んでしまう。そう、冠葉と晶馬が閉じ込められて餓死しそうになっていたのは前にも書いたように親からの愛情を受け取れていなかったからである。

愛はお互いが手を差し出さないと成立しない。眞悧先生はそのことに気づくことができなかった。鷲塚医師が差し出していたかもしれない手に気づかなかった。眞悧先生は自分を閉じ込める箱を、ひとを、世界を壊して外に出ようとしたのだ。何もない誰とも繋がれない箱から存在を認めてもらおうと、愛を得ようと、生きる意味を得ようとした。眞悧先生は自分の分身とも言える、シラセとソウヤにしか認められなかった寂しい、けれども僕たちの世界にもいる人だった。そう思うと彼の言葉が負け惜しみに聞こえてきて悲しく、自分と重ねあわせてしまう。
「きみたちは決して呪いから逃れることはできないよ。僕がそうであるようにね」(略)「箱のなかのきみたちが何かを得ることなどない! この世界に何も残せず、ただ消えるんだ。塵ひとつ残せやしないさ!」(略)「きみたちは絶対、しあわせになんかなれない」

ピングフォースについては前記事で引いた部分をもう一度引いておく。
夏芽左兵衛が築き上げた夏芽の人々は、とても強欲だった。この世界は欲のあるものが支配し、それ以外の人間には果実など与えない。それが祖父の呪いだと思っていた。だから、真砂子は夏芽のすべてを捨てて姿をくらました父を、欲のない美しいひとだと思った。しかし、あそこは父の棺だった。未だ実態のはっきりとしない、揺れ動く、父の美しい棺だったのだ。単純に目に見える美しさや光には、必ず影が付きまとう。冠葉は真砂子やマリオをその影から救い出し、本当の光、陽のあたる世界へおいてくれた。ゆりの言った通り、真砂子はそのことに気がつかない子供だったのだ。 
強欲な人は果実を他の人に与えず、前の記事で書いたように呪い=家族であるわけだ。確かにそうであるけれども、じゃあ欲のないのが美しいのか。その一つの答えがピングフォースである。ピングフォースというのは美しい目標に対して「正しいこと」を言う人だけれども、他の人から見ると狂人と呼ばれる集団だ。

ピングフォースは95のマークや地下鉄爆破事件からもわかるようにオウムがモデルだ。幾原監督は公式ガイドブックでの辻村深月との対談で
少し話が変わるんだけど、若い人のドグマが表出するきっかけはいつも、"とてつもない正義" だと思うんですよ。60年代の運動だって、彼らが信じるとてつもない正義が大人たちに反抗するパワーになった。95年の事件もそう。それを起こした彼ら一人ひとりの言葉を見聞きすると、その正しさたるや、聞いていて吐き気をもよおすぐらいの潔癖さだったりする。じゃあ今はどうか? インターネットで交わされている言葉にはとてつもない正義があふれていますよね。ネット上で名前のない彼らは、徹底して正しさとは何か、という話を煮詰めていて、ちょっとでも汚れていると途端に総攻撃を仕かけることがある。その正しさがさらに煮詰められたときに、いったいどうなるのか? 世界というのは基本的に正しさで構成されていないから、人間は正しさを語り合うと同時にうしろ暗さも抱えていて、自分をあましながら生きている。バーチャルの世界で煮詰められた正しさも、最終的にはなんらかのエネルギーとして表出する気がしますね。
と述べている。正しさを求めるあまり排他的になり、自分の存在を、居場所を世界からなくしていき、「透明な存在」になってしまったコミュニティ。正しさが、光が増えると影の居場所はなくなっていく。光だけを求めると、光と影がある世界が許せなくなる。


最後に冠馬が言った「俺は見つけたよ。本当の光を」という話は結局のところこれにつながっている。箱に閉じ込められた自分を照らしてくれる光。光だけが、影だけが支配する世界から光と影が共存する世界へ導いてくれる光。


また眞悧先生の言葉を引く。
「だよね。きみが彼の行いを否定すればするほど、きみの声は彼から遠ざかり、届かなくなる。わかってるだろう? 『誰よりもきみが必要なんだ』って、みんなそう言って欲しいんだ。それだけを求めて生きているんだ」
愛が、存在を認めてもらえなければ人は透明な存在になる。では求めるままにすればそれでいいのか。陽毬の言葉も引く。
「だって、キスは無限じゃないんだよ、消費されちゃうんだよ。果実がないのにキスばっかりしてたら、私は空っぽになっちゃうよ」
果実、愛がないのにキスをする。相手が認識していないのに自分を削って何かを与えようとする。だからキスは無限じゃなく、消費されてしまう。まるでホストクラブやキャバクラで貢ぐように。相手が求めるままに与えればいいのか。前にも書いたように愛とはキャッチボールようなもの。一方的ではダメで、相互に投げ合う、またはちゃんと受け取る必要があるわけだ。

ピングドラムは基本的には愛の話であるが、傍流としてコミュニティについてということがある。また幾原監督の言葉を引く。
それまで漠然と依存してきたコミュニティーのありようが変わって、意識的に自分の拠り所を最確認する心の動きが起こったとします。そのときに一番リアリティーがあるのは、やっぱり「生んでくれて、ありがとう」や「育ててくれて、ありがとう」じゃないですか。
家族という最小のコミュニティとピングフォースというコミュニティ。 2011年は非日常があり、自分の属しているコミュニティを最確認する年だった。ピングドラム作中にもあったように、家族が最後の絶対の砦になるとは限らない。これまではほぼ強制的に箱が繋がれていたのが、幾原監督が例に出すアメリカでの囚人の家族みたいに、コミュニティを維持する、作るということが重要になっていくのかもしれない。

箱とかはうまく言えるけど眞悧先生であったりピングフォースみたいなコミュニティについてはまだうまく咀嚼して語れない。大きなテーマの愛については前記事のようにうまく言えるけど、この記事みたいな傍流の部分がまだよくうまく語れない。運命の至る場所とかね。でもまあ、とりあえずなんかうまくは言えないけど、ピングドラムについて語るのはここまでにする。前のピングドラムの記事も含めると1週間ぐらいずっと考えてて、いろいろと手につかなかったのでそろそろまともな生活に復帰しなければ。

またなんかうまく理解して語りたくなったら書こう。

2012年5月2日水曜日

Astro Cafeで考えた衛星とか

Tsukuba SpaceClusterとかいう学生団体、まあ代表はM1の知り合いの先輩が主催したAstro Cafeというのに行ってきた。

まあJAXAでISSとかきぼうの管制やってる人の講演を聞いてそのあとグループディスカッションみたいに各グループで衛星を考える的なことをやった。一番驚いたのはJAXAの管制もPMCみたいに民間に委託してるってこと。完全にJAXAの人がやってると思ってた。

で、考えた衛星について。グループで同じ机に座ってたのが6人中4人がサークルの後輩で非常に内輪ちっくだった。とりあえずブレインストーミングでアイデア出そうとか言っていろいろ出した。まあ9割ぐらいは僕が出した。グループで出たので覚えているのは

  • 発電衛星
  • 散骨衛星
  • 降雨衛星
  • サテライトキャノン
  • 星座衛星
  • オリエンテーリング衛星
  • 酒造衛星
  • 飴衛星
みたいな感じ。自分が出した散骨衛星がグループで採用。グループで提出する紙は後輩が書いた。うろ覚えだけど。

ミッション名
星になったおじいちゃん

目的
遺灰をカプセルにいれ宇宙に打ち上げ、指定の日時で地球に投下。流れ星となって文字通り星になれる

売り込み先
死にそうな人の家族、金持ち

アピールポイント
行きだけなのでコストが安い。文字通り星になれる。子供に「あの流れ星がおじいちゃんなんだよ」と言うことができる。

という感じで書いて、発表したらめちゃくちゃ受けた。うおーとかすげー的な感じになった。他の方々は真面目に東電に売電するための発電衛星とか月面天文衛星とか電波天文衛星とか考えてました。個人的には大勝利だと思ってる。

まあ、ネタバレ言っちゃうと宇宙散骨自体は知ってた。ここまでウケるとは思ってなかった。けど、宇宙散骨から流れ星にするってところがオリジナルでちゃんと考えました。考えたけどもしかしたらもうあるかもしれんが、たぶんそこが勝因。

で、懇親会にも行ったんだけど、ついにドヤ顔でリベットの実験について話すことができたので最高に気持よかったです。あと前にもレビューしたジェノサイドとか1984とかからインスパイアされた話とかしました。なんか都市工学系の人がいたからそういうテラフォーミングとか宇宙移民みたいにSFちっくな未来の話が多かった。

最後に一つ言わせて。楽しかった。

2012年5月1日火曜日

「愛の話なんだよ、なんでわかんないかな~」2

前の記事でぐだぐだ書いてたけど核心の愛の話について語ろうと思う。たぶん2ってタイトルにあるけど、こっちが本番だと思う。長くなったから画像が入るまでが一つの話題って感じで読んで。

ピングドラムにおいて公式が流していた「僕の愛も、君の罰も、すべてわけあうんだ」というフレーズ。「愛」とは「罰」であり、「呪い」ではないのか。そしてそれらは、分けあわれていく。たぶんこれがこの作品の核だと僕は思っている。

この作品のモチーフとなっている宮沢賢治の銀河鉄道の夜。この中に出てくる蠍の話。これが愛とはなんぞや、ということを示しているのでその部分を引く。
むかしのバルドラの野原に一ぴきの蝎がいて小さな虫やなんか殺してたべて生きていたんですって。するとある日いたちに見附かって食べられそうになったんですって。さそりは一生けん命遁げて遁げたけどとうとういたちに押えられそうになったわ、そのときいきなり前に井戸があってその中に落ちてしまったわ、もうどうしてもあがられないでさそりは溺れはじめたのよ。そのときさそりは斯う云ってお祈りしたというの、
ああ、わたしはいままでいくつのものの命をとったかわからない、そしてその私がこんどいたちにとられようとしたときはあんなに一生けん命にげた。それでもとうとうこんなになってしまった。ああなんにもあてにならない。どうしてわたしはわたしのからだをだまっていたちに呉れてやらなかったろう。そしたらいたちも一日生きのびたろうに。どうか神さま。私の心をごらん下さい。こんなにむなしく命をすてずどうかこの次にはまことのみんなの幸のために私のからだをおつかい下さい。って云ったというの。そしたらいつか蝎はじぶんのからだがまっ赤なうつくしい火になって燃えてよるのやみを照らしているのを見たって。いまでも燃えてるってお父さん仰ったわ。ほんとうにあの火それだわ。
だから乗り換えの時で「命←→蠍の炎」なわけ。「愛」とは「代償」、「自己犠牲」が必要なものでもある。

じゃあ、自らの体を犠牲にすればそれが愛なのかと言えば、それは違う。冠葉が晶馬へリンゴを分け合おうとしようとしたとき、冠馬と晶馬が二人とも檻から精一杯手を伸ばしてリンゴをやり取りしたように、受け取る側の努力というか認識が重要。

家宅捜索される前の高倉家の玄関にリンゴが3つあったように実は晶馬は愛されていた。晶馬が23話の終わりの方でで両親を許したことで、冠馬や陽毬と違って晶馬は「失われた子ども」じゃなくなったんだと僕は思う。じゃあなんで晶馬が「檻」の中に入ってたかというと、親がピングフォースの運動に傾倒してて親ではなく指導者となっていたからかなと。そう考えると同じく親が幹部だった冠馬も檻に入れられていたわけもわかる。で、あの事件の首謀者だとわかって以来晶馬は親との繋がりを拒否してたが、最後で両親を許し、親からの愛を感じることができた。だから最終話で晶馬は冠馬にピングドラムを返すことができたんじゃないか。果実を受け取ることができたから苹果が運命の乗り換えのための代償の炎に囲まれた中に突っ込んでいき、抱きしめることができた。そして、苹果の代わりに呪いの炎に焼かれ、「愛してる」という言い、両親の罰を両親を愛してるゆえに受けることができたから運命の乗り換えができたのだと思う。

じゃあ両親から捨てられたとも言える冠馬と陽毬、ゆりと多蕗はどうなのかという話。

まずそもそもとして、人は愛されたことがなければ死んでしまう、自分を見失ってしまうということ。愛されない、いらない捨てられた子どもたちはこどもブロイラーに送られて「透明な存在」になってしまう。「きっと何者にもなれないお前たち」というのは、この世界での存在理由がない人のことを言うのだと思う。桃果が多蕗に「私のために生きて!」と言ったように、誰かに一度は世界に引き止めてもらわないと、人はブロイラーに送られて透明な存在になってしまうのかもしれない。
あるとき、テレビで見た少女が言った。「世界は「選ばれる人」と「選ばれない人」の二種類しかいない」ドキッとした。「選ばれないことは死ぬこと」と少女は言った。
http://www2.jrt.co.jp/cgi-bin3/ikuniweb/tomozo.cgi?no=417 より。

で、冠馬と陽毬。冠馬から晶馬へリンゴの半分が渡され、晶馬が陽毬をこどもブロイラーで選び、陽毬のことを冠馬が守りたいと思ったというのがピングドラム作中での大きな構図。冠馬は両親が死んでから高倉家に迎え入れられたわけだけれども、晶馬と同じく剣山と千江美からの愛をちゃんと受け取れず、結局のところ、親からの愛ではなく兄弟愛によるピングドラムで冠馬晶馬陽毬の3人は生きてたんじゃないかと思う。あ、冠馬がなんで檻の中でリンゴを見つけることができたのかというと、それは大切な人、真砂子とマリオを思い浮かべることができたからかな、と思う。晶馬は思い浮かべることができなかったからリンゴを見つけることができず、選ばれなかった。

じゃあなんで兄弟愛だけで生きてる3人なのに陽毬だけがなんで病気になったのかというと、もちろん晶馬が言っていた「メリーさんの羊」もあるんだろうけど、陽毬は冠馬からは兄妹愛を受けていたけど、与えてくれる冠馬に甘えてすぎていたからじゃないのかなと思う。与えてもらうだけで、自分から求めず、こちらから与えたりしなかった。愛とはキャッチボールみたいなものなのかなと。お互いに投げ合って、お互いが取り合わないと成立しないものじゃないのかと思う。輪るピングドラムとなってて、愛が「輪る」わけだけど冠馬と晶馬は双方向だったのが、陽毬に対しては冠馬、晶馬からの一方通行だったのかな、と思う。キャッチボールじゃなくて壁当てしてた感じ。最終話で冠馬の背中から血が吹き出たのは、陽毬が受け取ろうとしないことに対して、冠馬これ以上陽毬に与えるとしたら自分自身の体、いたちにくれてやったほうがよかった蠍の体しかないからというような感じ。陽毬は陽毬で、苹果が晶馬に言おうとしたように「あの子いつだってああやって笑っているけど」、実際は城に閉じ込められていたお姫様だったんじゃないのかなあ、と思う。プリンセス・オブ・ザ・クリスタルは冠馬と晶馬の前でいい子を演じようとした反動なのかな、という気がする。だって帽子自体は桃果で別物だったわけで。冠馬が陽毬を救うために企鵝の会に傾倒して「お前が死んだら、俺はこの世界を許さない」と言ったように、最後のほうで陽毬がこれまでで一番のわがままを言ったように、愛ってわがままからの結果なのかな、と思う。冠馬と晶馬が喧嘩をしたりして、わがままを互いに言い合ってたのに、陽毬だけは一方的に無意識にわがままを言うだけだったのかな、と。

ゆりと多蕗は愛されなかった子どもと似ている愛を失った子なんだよね。もちろん二人とも最初は愛されなかった子どもたちだった。けれども、そこから桃果が愛してくれて、失われた子どもじゃなくなった。どうして二人が残されたのかは、小説版そのまま引用したほうがわかりやすいから引く。
「きみと僕は、あらかじめ失われた子供だった。でも、世界中のほとんどの子供たちは僕らと一緒なんだよ。だから、たった一度で良い。誰かの愛してるって言葉が必要だったんだ」 「そうね 」たとえ運命がすべてを奪ったとしても、言葉や記憶が消え去っても、愛された子供はきっとまたしあわせを見つけられる。桃果が、ゆりや多蕗に残してくれたもの。それがあるから、ふたりはこの答えに辿りつけたのだ。
これとともに、小説版下巻の一番最初の文章も引く。
今はどんなに孤独だとしても、扉を開けて進むのだ。またいつか、必ず出会うために。そして愛するために。
この2つの引用が大体ゆりと多蕗に関して言いたいこと。愛された子供はまた誰かを愛する。失われた子供がいたら愛を与えよ。だからお前たちも人を愛せ、とイクニはクリスマスに言いたかったんだな。こどもブロイラーに送られそうな自分の存在を失いそうなやつがいたら死ぬなとか生きろじゃなくて、お前が必要だ、私のために生きてと言えってことだ。

苹果について書くの忘れてたけど、苹果も結局愛というのを失った子なんだよね。父親と母親が別れて、愛を家族を取り戻そうと桃果になろうとして、桃果になろうとするわけだ。それもこれも苹果の家族を元通りにしたいというわがままだったわけだけど、晶馬に「きみはきみ、荻野目苹果! ほかの誰でもないじゃないか!」と言われたことがターニングポイント。そしてゆりからの指摘で自分は桃果が好きだった多蕗じゃなくて晶馬が好きと気づくわけだ。で、そのあと晶馬に対して
「晶馬くんがいやだって言っても、あきらめないから。だって、私は晶馬くんのストーカーだもん。私、運命を変えて見せる」
と言う。 ここで晶馬にまた話が戻るんだけど、晶馬は上にも書いたように両親を許してなくて愛を受けず、自分が他人を愛することを許してなかったわけ。「みんな僕達から離れていって、僕ら兄妹は、三人だけで生きるしかなかった」んだけれども、それでも苹果はいてくれて、18話最後のシーンで
「私は違うよ。私は、晶馬くんたちのこと嫌いになったりしない!」 背中から回される両腕の力強い熱に、こころが少しずつ、溶けていく。 「悲しいことも辛いことも、無駄なんて思わない。それが運命なら、きっと意味があるもの。私は、受け入れて強くなる。だから」 あれだけ拒絶をした僕に、荻野目さんは言った。「だから、泣かないで」 僕も強くならなければいけない。どんなに理不尽に思えても、これが僕たちの運命だと言うのならば、受け入れて強くならなければ。服の袖で涙を拭いながら、僕はもう、自分に嘘はつかない。運命からも荻野目さんからも、決して逃げないと決めた。
 と晶馬は苹果に対して心を許す。で、上にも書いたように最終話で晶馬に苹果は「愛してる」と言われて、運命の乗り換えができたわけだ。公式ガイドブックでの晶馬のページから引く。
自分に愛を与えてくれた苹果。人を愛する資格ががないと思っていた晶馬は、彼女を「愛すること」を初めて自分に許したのだ。
両親が犯罪者で愛する資格がなく、罰を受けるべきだと思ってた自分から離れようとせず、愛を与えようとした苹果。両親を許すことができたから晶馬は最後に苹果を愛することができたのだと思う。両親=運命ね。大切な人のために、呪いの炎に焼かれるとしても「運命の乗り換え」を行おうとした苹果。18話と最終話24話がすごい好き。愛なんだよなー。18話のシーンはデスクトップの背景にしてる。


晶馬が苦しんでいたように親、家族というのがまず大きな呪いであり愛なんだよね。もちろん苹果も多蕗もゆりも真砂子も、家族というのが大きなキーになっている。眞悧先生の言葉を引く。
「ねえ、家族というのは、一種の幻想。『呪い』のようなものだと思わない?」(略)「考えてもみてよ。『家族』という名に縛られて苦しむ子供たちのことを。愛という名目のもとに、子供に何をしても良いと勘違いしている親たちのことを。彼らが本当に愛しているのは自分自身だけだというのに、子供たちはただ家族だからという理由で、親を愛し、きょうだいを愛さなければならない」
ほとんどの親は自分を犠牲にして子供を育てている。子供ができて独身のときにできたことができなくなったという話は枚挙にいとまがない。それとともに子供は親の期待であったり、晶馬のように親が犯罪者とまではいかなくとも出自であったりで、呪いを受けるわけ。呪いのメタファーなんだよと言った眞悧先生の後ろに両親が見えた冠馬のようにね。が、それが絆なでもあるわけ。ガイドブックでも言われていたけど、ピングドラムが放送された2011年は日常が失われていて、絆に対する意識がこれ以上なく高まっていたってこともさらに絆を意識させた。また、真砂子が冠葉に言った
「言って。わたくしはあなたの大切な妹だと。一度だけ、昔みたいに。そうしたら、わたくしは未来永劫、あなたと一緒に呪われる」
ということ。呪われると同時に自分の存在を、場所を得ることができる。トレードオフ。


イクニがインタビューで答えているが、アメリカの禁固何百年の受刑者だけれども、その彼のもとにも毎年家族が面会にやってきて家族写真を撮るという。イクニは日本は村社会で家族や個人をムラのルールが抹殺することがあるが、ドキュメンタリーでのアメリカでは家族というコミュニティはどんなにひどい犯罪者でも強固に維持されている。その絆の深さは、コミュニティを失うことへの強い不安の裏返しとも言える、と言っている。意図的に呪いをかけるかけられるということをしなければ、コミュニティを維持できないのかもしれない。コミュニティについてはまた別記事で書こうと思う。


真砂子についてはさらに小説版の文を引く。
夏芽左兵衛が築き上げた夏芽の人々は、とても強欲だった。この世界は欲のあるものが支配し、それ以外の人間には果実など与えない。それが祖父の呪いだと思っていた。だから、真砂子は夏芽のすべてを捨てて姿をくらました父を、欲のない美しいひとだと思った。しかし、あそこは父の棺だった。未だ実態のはっきりとしない、揺れ動く、父の美しい棺だったのだ。単純に目に見える美しさや光には、必ず影が付きまとう。冠葉は真砂子やマリオをその影から救い出し、本当の光、陽のあたる世界へおいてくれた。ゆりの言った通り、真砂子はそのことに気がつかない子供だったのだ。 
欲のある者が他のものに果実を与えず、人は箱の中に閉じ込められて繋がり合えない。眞悧先生の「箱」についてもまた別記事で。

ここまでは宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」をベースにした「愛」の話だったけど、ほかのモチーフについても語る。

輪るピングドラムにおいてはリンゴが「運命の果実」として描かれている。リンゴが「ピングドラム」であり、愛ということを作中では示された。そう、リンゴといえば旧約聖書創世記におけるアダムとイブが食べた禁断の果実。晶馬も言ったように最初の男女であるアダムとイブは「一緒に運命の果実を食べた」わけだ。その結果アダムとイブはエデンの園を追い出されて、人間は原罪を背負うようになったと言われている。これはある意味呪われたとも言えるのではないだろうか。
また、この禁断の果実以外にもりんごには様々な象徴がある。知恵だとか不死身だとかいろいろなものがある。それを分け合うということがピングドラムにおける肝だと思う。イクニも公式ガイドブックでの対談で言っていたけど、「分け合う」ってことが作品のテーマになっている。


ペンギンもモチーフになっているけど、これはコウテイペンギンの子育てがベースになってるんじゃないのかな、と思う。子供のためにマイナス60度の中で数ヶ月絶食して卵を温めたり、海に行ってきて取ってきた餌を雛に与えたりするあたりが愛じゃないかな、と。あとあれは重くなりがちな画面をコミカルにするとともに、3人の無意識を表しているのかな、と思う。

愛に関して好きな言葉があるのでなんとなく引いときます。
「世界を敵にして、たった一人に愛されるか。たった一人を失って、世界に愛されるか」劇団四季 Wicked
いつだったか、電車の吊り広告でこのフレーズをみて痺れました。

さて、陽毬が言った
「だって、キスは無限じゃないんだよ、消費されちゃうんだよ。果実がないのにキスばっかりしてたら、私は空っぽになっちゃうよ」
ということ。これは果実=愛とともに、眞悧先生の箱の話にも繋がるので、これもまた別記事で。


作品のキーワードとして選ぶとしたら「ありがとう」と「愛してる」。愛ってのは相手のための自己犠牲でありながらそれが自分のわがままであり、愛を受け取る相手もそれを認識して初めて成立するものなんじゃないのかなあ、というのがここまで書いてきて思いました。自発的な自己犠牲によるものが愛みたいな感じが自分の中であるから、すごいピングドラムの作中とぴったり合って、ピングドラムすごい好きってことです。

なんかまだ書き足りてないし、すごくまだうまく言い表せないけど、自分が感じたり思ったことについてまとめとく。