2012年5月3日木曜日

「愛の話なんだよ、なんでわかんないかな~」3

愛については散々語ったから次はサネトシ先生の「箱」とかピングフォース、あたりについて自分が思ったことをまとめておく。

眞悧が言った「箱」、冠馬と晶馬が閉じ込められていた箱。眞悧の言葉を引く。
「人間っていうのは、不自由な生き物だね。自分という箱から一生出られないんだ」(略)「隣に誰かがいても、壁を超えて繋がることもできない。僕らはみんなひとりぼっちなのさ。その小さく狭い箱の中で何かを得ることなど絶対にないだろう」(略)「出口なんかどこにもない。誰も救えやしない。だから、壊すしかないんだよ。箱を、ひとを!世界を!」
これらも事実というか本当である。エヴァだと自我と他人とを隔てるものとしてATフィールがあったように、他人とは自我という箱で隔てられ、他人とは一緒にはなれない。自分と他人、それはもう別の生き物だ。これが眞悧のいう箱は、名付けるならば「自我の箱」である。箱をいくつ繋げても1つの箱がなくなるわけではないのだ。

では、なぜ冠馬と晶馬は箱に閉じ込められて餓死しそうになっていたのか。前の記事でも書いたように人ってのは愛されたことがないと、存在を認めてもらえないと死んでしまうということに戻る。眞悧先生が言ったようにそもそも人は箱の中に閉じ込められていて、箱から出ることはできない。そしてその箱のなかで何かを得ることはできない。だから冠葉と晶馬がやりとりしたように、ピングドラム、愛をやりとりしないと死んでしまう。そう、冠葉と晶馬が閉じ込められて餓死しそうになっていたのは前にも書いたように親からの愛情を受け取れていなかったからである。

愛はお互いが手を差し出さないと成立しない。眞悧先生はそのことに気づくことができなかった。鷲塚医師が差し出していたかもしれない手に気づかなかった。眞悧先生は自分を閉じ込める箱を、ひとを、世界を壊して外に出ようとしたのだ。何もない誰とも繋がれない箱から存在を認めてもらおうと、愛を得ようと、生きる意味を得ようとした。眞悧先生は自分の分身とも言える、シラセとソウヤにしか認められなかった寂しい、けれども僕たちの世界にもいる人だった。そう思うと彼の言葉が負け惜しみに聞こえてきて悲しく、自分と重ねあわせてしまう。
「きみたちは決して呪いから逃れることはできないよ。僕がそうであるようにね」(略)「箱のなかのきみたちが何かを得ることなどない! この世界に何も残せず、ただ消えるんだ。塵ひとつ残せやしないさ!」(略)「きみたちは絶対、しあわせになんかなれない」

ピングフォースについては前記事で引いた部分をもう一度引いておく。
夏芽左兵衛が築き上げた夏芽の人々は、とても強欲だった。この世界は欲のあるものが支配し、それ以外の人間には果実など与えない。それが祖父の呪いだと思っていた。だから、真砂子は夏芽のすべてを捨てて姿をくらました父を、欲のない美しいひとだと思った。しかし、あそこは父の棺だった。未だ実態のはっきりとしない、揺れ動く、父の美しい棺だったのだ。単純に目に見える美しさや光には、必ず影が付きまとう。冠葉は真砂子やマリオをその影から救い出し、本当の光、陽のあたる世界へおいてくれた。ゆりの言った通り、真砂子はそのことに気がつかない子供だったのだ。 
強欲な人は果実を他の人に与えず、前の記事で書いたように呪い=家族であるわけだ。確かにそうであるけれども、じゃあ欲のないのが美しいのか。その一つの答えがピングフォースである。ピングフォースというのは美しい目標に対して「正しいこと」を言う人だけれども、他の人から見ると狂人と呼ばれる集団だ。

ピングフォースは95のマークや地下鉄爆破事件からもわかるようにオウムがモデルだ。幾原監督は公式ガイドブックでの辻村深月との対談で
少し話が変わるんだけど、若い人のドグマが表出するきっかけはいつも、"とてつもない正義" だと思うんですよ。60年代の運動だって、彼らが信じるとてつもない正義が大人たちに反抗するパワーになった。95年の事件もそう。それを起こした彼ら一人ひとりの言葉を見聞きすると、その正しさたるや、聞いていて吐き気をもよおすぐらいの潔癖さだったりする。じゃあ今はどうか? インターネットで交わされている言葉にはとてつもない正義があふれていますよね。ネット上で名前のない彼らは、徹底して正しさとは何か、という話を煮詰めていて、ちょっとでも汚れていると途端に総攻撃を仕かけることがある。その正しさがさらに煮詰められたときに、いったいどうなるのか? 世界というのは基本的に正しさで構成されていないから、人間は正しさを語り合うと同時にうしろ暗さも抱えていて、自分をあましながら生きている。バーチャルの世界で煮詰められた正しさも、最終的にはなんらかのエネルギーとして表出する気がしますね。
と述べている。正しさを求めるあまり排他的になり、自分の存在を、居場所を世界からなくしていき、「透明な存在」になってしまったコミュニティ。正しさが、光が増えると影の居場所はなくなっていく。光だけを求めると、光と影がある世界が許せなくなる。


最後に冠馬が言った「俺は見つけたよ。本当の光を」という話は結局のところこれにつながっている。箱に閉じ込められた自分を照らしてくれる光。光だけが、影だけが支配する世界から光と影が共存する世界へ導いてくれる光。


また眞悧先生の言葉を引く。
「だよね。きみが彼の行いを否定すればするほど、きみの声は彼から遠ざかり、届かなくなる。わかってるだろう? 『誰よりもきみが必要なんだ』って、みんなそう言って欲しいんだ。それだけを求めて生きているんだ」
愛が、存在を認めてもらえなければ人は透明な存在になる。では求めるままにすればそれでいいのか。陽毬の言葉も引く。
「だって、キスは無限じゃないんだよ、消費されちゃうんだよ。果実がないのにキスばっかりしてたら、私は空っぽになっちゃうよ」
果実、愛がないのにキスをする。相手が認識していないのに自分を削って何かを与えようとする。だからキスは無限じゃなく、消費されてしまう。まるでホストクラブやキャバクラで貢ぐように。相手が求めるままに与えればいいのか。前にも書いたように愛とはキャッチボールようなもの。一方的ではダメで、相互に投げ合う、またはちゃんと受け取る必要があるわけだ。

ピングドラムは基本的には愛の話であるが、傍流としてコミュニティについてということがある。また幾原監督の言葉を引く。
それまで漠然と依存してきたコミュニティーのありようが変わって、意識的に自分の拠り所を最確認する心の動きが起こったとします。そのときに一番リアリティーがあるのは、やっぱり「生んでくれて、ありがとう」や「育ててくれて、ありがとう」じゃないですか。
家族という最小のコミュニティとピングフォースというコミュニティ。 2011年は非日常があり、自分の属しているコミュニティを最確認する年だった。ピングドラム作中にもあったように、家族が最後の絶対の砦になるとは限らない。これまではほぼ強制的に箱が繋がれていたのが、幾原監督が例に出すアメリカでの囚人の家族みたいに、コミュニティを維持する、作るということが重要になっていくのかもしれない。

箱とかはうまく言えるけど眞悧先生であったりピングフォースみたいなコミュニティについてはまだうまく咀嚼して語れない。大きなテーマの愛については前記事のようにうまく言えるけど、この記事みたいな傍流の部分がまだよくうまく語れない。運命の至る場所とかね。でもまあ、とりあえずなんかうまくは言えないけど、ピングドラムについて語るのはここまでにする。前のピングドラムの記事も含めると1週間ぐらいずっと考えてて、いろいろと手につかなかったのでそろそろまともな生活に復帰しなければ。

またなんかうまく理解して語りたくなったら書こう。

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