2012年5月1日火曜日

「愛の話なんだよ、なんでわかんないかな~」2

前の記事でぐだぐだ書いてたけど核心の愛の話について語ろうと思う。たぶん2ってタイトルにあるけど、こっちが本番だと思う。長くなったから画像が入るまでが一つの話題って感じで読んで。

ピングドラムにおいて公式が流していた「僕の愛も、君の罰も、すべてわけあうんだ」というフレーズ。「愛」とは「罰」であり、「呪い」ではないのか。そしてそれらは、分けあわれていく。たぶんこれがこの作品の核だと僕は思っている。

この作品のモチーフとなっている宮沢賢治の銀河鉄道の夜。この中に出てくる蠍の話。これが愛とはなんぞや、ということを示しているのでその部分を引く。
むかしのバルドラの野原に一ぴきの蝎がいて小さな虫やなんか殺してたべて生きていたんですって。するとある日いたちに見附かって食べられそうになったんですって。さそりは一生けん命遁げて遁げたけどとうとういたちに押えられそうになったわ、そのときいきなり前に井戸があってその中に落ちてしまったわ、もうどうしてもあがられないでさそりは溺れはじめたのよ。そのときさそりは斯う云ってお祈りしたというの、
ああ、わたしはいままでいくつのものの命をとったかわからない、そしてその私がこんどいたちにとられようとしたときはあんなに一生けん命にげた。それでもとうとうこんなになってしまった。ああなんにもあてにならない。どうしてわたしはわたしのからだをだまっていたちに呉れてやらなかったろう。そしたらいたちも一日生きのびたろうに。どうか神さま。私の心をごらん下さい。こんなにむなしく命をすてずどうかこの次にはまことのみんなの幸のために私のからだをおつかい下さい。って云ったというの。そしたらいつか蝎はじぶんのからだがまっ赤なうつくしい火になって燃えてよるのやみを照らしているのを見たって。いまでも燃えてるってお父さん仰ったわ。ほんとうにあの火それだわ。
だから乗り換えの時で「命←→蠍の炎」なわけ。「愛」とは「代償」、「自己犠牲」が必要なものでもある。

じゃあ、自らの体を犠牲にすればそれが愛なのかと言えば、それは違う。冠葉が晶馬へリンゴを分け合おうとしようとしたとき、冠馬と晶馬が二人とも檻から精一杯手を伸ばしてリンゴをやり取りしたように、受け取る側の努力というか認識が重要。

家宅捜索される前の高倉家の玄関にリンゴが3つあったように実は晶馬は愛されていた。晶馬が23話の終わりの方でで両親を許したことで、冠馬や陽毬と違って晶馬は「失われた子ども」じゃなくなったんだと僕は思う。じゃあなんで晶馬が「檻」の中に入ってたかというと、親がピングフォースの運動に傾倒してて親ではなく指導者となっていたからかなと。そう考えると同じく親が幹部だった冠馬も檻に入れられていたわけもわかる。で、あの事件の首謀者だとわかって以来晶馬は親との繋がりを拒否してたが、最後で両親を許し、親からの愛を感じることができた。だから最終話で晶馬は冠馬にピングドラムを返すことができたんじゃないか。果実を受け取ることができたから苹果が運命の乗り換えのための代償の炎に囲まれた中に突っ込んでいき、抱きしめることができた。そして、苹果の代わりに呪いの炎に焼かれ、「愛してる」という言い、両親の罰を両親を愛してるゆえに受けることができたから運命の乗り換えができたのだと思う。

じゃあ両親から捨てられたとも言える冠馬と陽毬、ゆりと多蕗はどうなのかという話。

まずそもそもとして、人は愛されたことがなければ死んでしまう、自分を見失ってしまうということ。愛されない、いらない捨てられた子どもたちはこどもブロイラーに送られて「透明な存在」になってしまう。「きっと何者にもなれないお前たち」というのは、この世界での存在理由がない人のことを言うのだと思う。桃果が多蕗に「私のために生きて!」と言ったように、誰かに一度は世界に引き止めてもらわないと、人はブロイラーに送られて透明な存在になってしまうのかもしれない。
あるとき、テレビで見た少女が言った。「世界は「選ばれる人」と「選ばれない人」の二種類しかいない」ドキッとした。「選ばれないことは死ぬこと」と少女は言った。
http://www2.jrt.co.jp/cgi-bin3/ikuniweb/tomozo.cgi?no=417 より。

で、冠馬と陽毬。冠馬から晶馬へリンゴの半分が渡され、晶馬が陽毬をこどもブロイラーで選び、陽毬のことを冠馬が守りたいと思ったというのがピングドラム作中での大きな構図。冠馬は両親が死んでから高倉家に迎え入れられたわけだけれども、晶馬と同じく剣山と千江美からの愛をちゃんと受け取れず、結局のところ、親からの愛ではなく兄弟愛によるピングドラムで冠馬晶馬陽毬の3人は生きてたんじゃないかと思う。あ、冠馬がなんで檻の中でリンゴを見つけることができたのかというと、それは大切な人、真砂子とマリオを思い浮かべることができたからかな、と思う。晶馬は思い浮かべることができなかったからリンゴを見つけることができず、選ばれなかった。

じゃあなんで兄弟愛だけで生きてる3人なのに陽毬だけがなんで病気になったのかというと、もちろん晶馬が言っていた「メリーさんの羊」もあるんだろうけど、陽毬は冠馬からは兄妹愛を受けていたけど、与えてくれる冠馬に甘えてすぎていたからじゃないのかなと思う。与えてもらうだけで、自分から求めず、こちらから与えたりしなかった。愛とはキャッチボールみたいなものなのかなと。お互いに投げ合って、お互いが取り合わないと成立しないものじゃないのかと思う。輪るピングドラムとなってて、愛が「輪る」わけだけど冠馬と晶馬は双方向だったのが、陽毬に対しては冠馬、晶馬からの一方通行だったのかな、と思う。キャッチボールじゃなくて壁当てしてた感じ。最終話で冠馬の背中から血が吹き出たのは、陽毬が受け取ろうとしないことに対して、冠馬これ以上陽毬に与えるとしたら自分自身の体、いたちにくれてやったほうがよかった蠍の体しかないからというような感じ。陽毬は陽毬で、苹果が晶馬に言おうとしたように「あの子いつだってああやって笑っているけど」、実際は城に閉じ込められていたお姫様だったんじゃないのかなあ、と思う。プリンセス・オブ・ザ・クリスタルは冠馬と晶馬の前でいい子を演じようとした反動なのかな、という気がする。だって帽子自体は桃果で別物だったわけで。冠馬が陽毬を救うために企鵝の会に傾倒して「お前が死んだら、俺はこの世界を許さない」と言ったように、最後のほうで陽毬がこれまでで一番のわがままを言ったように、愛ってわがままからの結果なのかな、と思う。冠馬と晶馬が喧嘩をしたりして、わがままを互いに言い合ってたのに、陽毬だけは一方的に無意識にわがままを言うだけだったのかな、と。

ゆりと多蕗は愛されなかった子どもと似ている愛を失った子なんだよね。もちろん二人とも最初は愛されなかった子どもたちだった。けれども、そこから桃果が愛してくれて、失われた子どもじゃなくなった。どうして二人が残されたのかは、小説版そのまま引用したほうがわかりやすいから引く。
「きみと僕は、あらかじめ失われた子供だった。でも、世界中のほとんどの子供たちは僕らと一緒なんだよ。だから、たった一度で良い。誰かの愛してるって言葉が必要だったんだ」 「そうね 」たとえ運命がすべてを奪ったとしても、言葉や記憶が消え去っても、愛された子供はきっとまたしあわせを見つけられる。桃果が、ゆりや多蕗に残してくれたもの。それがあるから、ふたりはこの答えに辿りつけたのだ。
これとともに、小説版下巻の一番最初の文章も引く。
今はどんなに孤独だとしても、扉を開けて進むのだ。またいつか、必ず出会うために。そして愛するために。
この2つの引用が大体ゆりと多蕗に関して言いたいこと。愛された子供はまた誰かを愛する。失われた子供がいたら愛を与えよ。だからお前たちも人を愛せ、とイクニはクリスマスに言いたかったんだな。こどもブロイラーに送られそうな自分の存在を失いそうなやつがいたら死ぬなとか生きろじゃなくて、お前が必要だ、私のために生きてと言えってことだ。

苹果について書くの忘れてたけど、苹果も結局愛というのを失った子なんだよね。父親と母親が別れて、愛を家族を取り戻そうと桃果になろうとして、桃果になろうとするわけだ。それもこれも苹果の家族を元通りにしたいというわがままだったわけだけど、晶馬に「きみはきみ、荻野目苹果! ほかの誰でもないじゃないか!」と言われたことがターニングポイント。そしてゆりからの指摘で自分は桃果が好きだった多蕗じゃなくて晶馬が好きと気づくわけだ。で、そのあと晶馬に対して
「晶馬くんがいやだって言っても、あきらめないから。だって、私は晶馬くんのストーカーだもん。私、運命を変えて見せる」
と言う。 ここで晶馬にまた話が戻るんだけど、晶馬は上にも書いたように両親を許してなくて愛を受けず、自分が他人を愛することを許してなかったわけ。「みんな僕達から離れていって、僕ら兄妹は、三人だけで生きるしかなかった」んだけれども、それでも苹果はいてくれて、18話最後のシーンで
「私は違うよ。私は、晶馬くんたちのこと嫌いになったりしない!」 背中から回される両腕の力強い熱に、こころが少しずつ、溶けていく。 「悲しいことも辛いことも、無駄なんて思わない。それが運命なら、きっと意味があるもの。私は、受け入れて強くなる。だから」 あれだけ拒絶をした僕に、荻野目さんは言った。「だから、泣かないで」 僕も強くならなければいけない。どんなに理不尽に思えても、これが僕たちの運命だと言うのならば、受け入れて強くならなければ。服の袖で涙を拭いながら、僕はもう、自分に嘘はつかない。運命からも荻野目さんからも、決して逃げないと決めた。
 と晶馬は苹果に対して心を許す。で、上にも書いたように最終話で晶馬に苹果は「愛してる」と言われて、運命の乗り換えができたわけだ。公式ガイドブックでの晶馬のページから引く。
自分に愛を与えてくれた苹果。人を愛する資格ががないと思っていた晶馬は、彼女を「愛すること」を初めて自分に許したのだ。
両親が犯罪者で愛する資格がなく、罰を受けるべきだと思ってた自分から離れようとせず、愛を与えようとした苹果。両親を許すことができたから晶馬は最後に苹果を愛することができたのだと思う。両親=運命ね。大切な人のために、呪いの炎に焼かれるとしても「運命の乗り換え」を行おうとした苹果。18話と最終話24話がすごい好き。愛なんだよなー。18話のシーンはデスクトップの背景にしてる。


晶馬が苦しんでいたように親、家族というのがまず大きな呪いであり愛なんだよね。もちろん苹果も多蕗もゆりも真砂子も、家族というのが大きなキーになっている。眞悧先生の言葉を引く。
「ねえ、家族というのは、一種の幻想。『呪い』のようなものだと思わない?」(略)「考えてもみてよ。『家族』という名に縛られて苦しむ子供たちのことを。愛という名目のもとに、子供に何をしても良いと勘違いしている親たちのことを。彼らが本当に愛しているのは自分自身だけだというのに、子供たちはただ家族だからという理由で、親を愛し、きょうだいを愛さなければならない」
ほとんどの親は自分を犠牲にして子供を育てている。子供ができて独身のときにできたことができなくなったという話は枚挙にいとまがない。それとともに子供は親の期待であったり、晶馬のように親が犯罪者とまではいかなくとも出自であったりで、呪いを受けるわけ。呪いのメタファーなんだよと言った眞悧先生の後ろに両親が見えた冠馬のようにね。が、それが絆なでもあるわけ。ガイドブックでも言われていたけど、ピングドラムが放送された2011年は日常が失われていて、絆に対する意識がこれ以上なく高まっていたってこともさらに絆を意識させた。また、真砂子が冠葉に言った
「言って。わたくしはあなたの大切な妹だと。一度だけ、昔みたいに。そうしたら、わたくしは未来永劫、あなたと一緒に呪われる」
ということ。呪われると同時に自分の存在を、場所を得ることができる。トレードオフ。


イクニがインタビューで答えているが、アメリカの禁固何百年の受刑者だけれども、その彼のもとにも毎年家族が面会にやってきて家族写真を撮るという。イクニは日本は村社会で家族や個人をムラのルールが抹殺することがあるが、ドキュメンタリーでのアメリカでは家族というコミュニティはどんなにひどい犯罪者でも強固に維持されている。その絆の深さは、コミュニティを失うことへの強い不安の裏返しとも言える、と言っている。意図的に呪いをかけるかけられるということをしなければ、コミュニティを維持できないのかもしれない。コミュニティについてはまた別記事で書こうと思う。


真砂子についてはさらに小説版の文を引く。
夏芽左兵衛が築き上げた夏芽の人々は、とても強欲だった。この世界は欲のあるものが支配し、それ以外の人間には果実など与えない。それが祖父の呪いだと思っていた。だから、真砂子は夏芽のすべてを捨てて姿をくらました父を、欲のない美しいひとだと思った。しかし、あそこは父の棺だった。未だ実態のはっきりとしない、揺れ動く、父の美しい棺だったのだ。単純に目に見える美しさや光には、必ず影が付きまとう。冠葉は真砂子やマリオをその影から救い出し、本当の光、陽のあたる世界へおいてくれた。ゆりの言った通り、真砂子はそのことに気がつかない子供だったのだ。 
欲のある者が他のものに果実を与えず、人は箱の中に閉じ込められて繋がり合えない。眞悧先生の「箱」についてもまた別記事で。

ここまでは宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」をベースにした「愛」の話だったけど、ほかのモチーフについても語る。

輪るピングドラムにおいてはリンゴが「運命の果実」として描かれている。リンゴが「ピングドラム」であり、愛ということを作中では示された。そう、リンゴといえば旧約聖書創世記におけるアダムとイブが食べた禁断の果実。晶馬も言ったように最初の男女であるアダムとイブは「一緒に運命の果実を食べた」わけだ。その結果アダムとイブはエデンの園を追い出されて、人間は原罪を背負うようになったと言われている。これはある意味呪われたとも言えるのではないだろうか。
また、この禁断の果実以外にもりんごには様々な象徴がある。知恵だとか不死身だとかいろいろなものがある。それを分け合うということがピングドラムにおける肝だと思う。イクニも公式ガイドブックでの対談で言っていたけど、「分け合う」ってことが作品のテーマになっている。


ペンギンもモチーフになっているけど、これはコウテイペンギンの子育てがベースになってるんじゃないのかな、と思う。子供のためにマイナス60度の中で数ヶ月絶食して卵を温めたり、海に行ってきて取ってきた餌を雛に与えたりするあたりが愛じゃないかな、と。あとあれは重くなりがちな画面をコミカルにするとともに、3人の無意識を表しているのかな、と思う。

愛に関して好きな言葉があるのでなんとなく引いときます。
「世界を敵にして、たった一人に愛されるか。たった一人を失って、世界に愛されるか」劇団四季 Wicked
いつだったか、電車の吊り広告でこのフレーズをみて痺れました。

さて、陽毬が言った
「だって、キスは無限じゃないんだよ、消費されちゃうんだよ。果実がないのにキスばっかりしてたら、私は空っぽになっちゃうよ」
ということ。これは果実=愛とともに、眞悧先生の箱の話にも繋がるので、これもまた別記事で。


作品のキーワードとして選ぶとしたら「ありがとう」と「愛してる」。愛ってのは相手のための自己犠牲でありながらそれが自分のわがままであり、愛を受け取る相手もそれを認識して初めて成立するものなんじゃないのかなあ、というのがここまで書いてきて思いました。自発的な自己犠牲によるものが愛みたいな感じが自分の中であるから、すごいピングドラムの作中とぴったり合って、ピングドラムすごい好きってことです。

なんかまだ書き足りてないし、すごくまだうまく言い表せないけど、自分が感じたり思ったことについてまとめとく。

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